開催日: 2019年8月11日(日)
場所: 湘南高校 多目的ホール
テーマ: サッカー部百年 #1 ~創部から昭和~
講師: 相羽 克治 氏 (41回生, サッカー部OB会副会長)
関 佳史 氏 (48回生, サッカー部OB会事務局長)
サッカー部は、学校創立と同時に創部で、2021年に100周年を迎える。100周年記念誌の編集委員である相羽克治氏(41回)と関佳史氏(48回)が、創部から昭和の終わりまでの約70年間の歴史を記念誌制作のために収集した資料を利用して講演を行った。
1946年までの旧制中学時代は関氏が担当。サッカーは校技と言われているが、10周年記念誌では「校技」という記述がみられないことをもとに、校技となったのは少し後ではないかという推論を述べた。一方、硬式野球部は許可されなかったことについて、グランドが長方形で野球に適さない。赤木校長は「日本一」を目指す方を掲げたが、野球はすでに大人気スポーツで、日本一になるのは難しい。「野球害毒論」キャンペーンがあり、そのころ創立した旧制中学は野球部をつくらなかった、など近年の各種研究に基づく指摘をした。
湘南蹴球部は、1回生天野武一さん、2回生岩渕二郎さんの二人が、在学中だけでなく、卒業後に指導し、日本代表クラスのコーチを招へいし、継続的に強化を続けた。その結果、1936年(昭和6)には神奈川県で初優勝を飾る。1937年(昭和12)からは神奈川県代表として連続して大会に出場する。戦前で、中学選手権3回出場(最高ベスト4)、関東大会3回出場(優勝2回、準優勝1回)という黄金時代を迎えた。
戦後、1946年(昭和21)、最後の旧制中学世代が、第一回国体で優勝する。決勝で、神戸一中に3-2で勝利した。神戸一中は、戦前からショートパス戦法を開発し、年齢が2年上の師範学校を押えて5回の全国制覇を成し遂げた旧制中学ナンバーワンのチーム。湘南は神戸一中を手本として、チーム戦術を鍛えてきた。その相手に、勝って全国一となったことで、喜びも一入であった。
後半は、1960年(昭和40)の関東大会で優勝した相羽氏が担当。自らの体験も交えた話となった。
1948年(昭和23)、新制高校となって第三回国体で決勝まで進出する。相手の広大付属は前年の選手権で優勝の強豪。ところが、広大付属が試合時間を間違えて遅刻する。湘南は岩渕総監督らの判断で、遅刻した相手と試合をすることを選ぶ。試合は白熱するが、湘南GKがボールをキャッチしたところを、体ごとゴールに押し込んで広大付属が優勝した。このあと、学制が変わり、しばらく県の代表からは遠ざかる。
1953年(昭和28)、一般企業にいた岩渕さんが湘南サッカーをみたいということで定時制へ教員として赴任。翌年、宮原孝雄先生が初の教員・監督として赴任し、サッカーを指導。1960年(昭和35)には、関東大会で準優勝する。このときは、春の浦高戦で負けた浦和高校に、関東大会では雪辱して決勝まで進んだ。
1961年(昭和36)には、鈴木中先生が赴任、28年間サッカー部を指導することとなる。この年には16年ぶりに選手権、国体に出場、翌年には関東大会、国体に出場する。
相羽氏が2年の1964年(昭和39)には、選手権で決勝まで進み、鎌倉学園と対戦する。この試合、鎌倉学園が遅刻する。湘南の勝利を決定しようとしたところに、鎌学が到着。鈴木監督も試合を行うことを了解するが、2-4で負けてしまった。岩渕総監督にとって、デジャブであった。
翌年、1965年(昭和40年)には、関東大会で優勝。当時WMシステムが主流だったところに、湘南は4-2-4を導入して、相手守備陣をかく乱し、決勝では帝京を1-0でやぶる。この年の秋、選手権は全員2年生が出場し県代表となる。本大会出場にあたり鈴木監督は3年生5名をチームに戻す決断をした。これにより出場できない2年生がでた。本大会では1回戦で甲賀に抽選負けし、出場できなかった2年生にとっては無念の大会となった。
その後、1978年(昭和53)、のちに教員・監督となる藤塚久雄さんの世代が選手権準決勝に進出。1983年(昭和58)、関東大会に出場。鈴木部長、藤塚監督体制になった1988年(昭和63)、関東大会に出場、秋には選手権県予選を突破し、全国大会に出場、ベスト16まで勝ち進んだ。
1937年(昭和12)から1988年(昭和63)までの50年余りの長い期間で、選手権6回出場は、全国的に珍しい存在である。戦後、新制高校になり、高校からサッカーを始める選手も少なくない中、教員・監督が指導するシステムに変更となったあとも伝統を継承しながら、チーム強化を行ってきた昭和の時代を振り返った。